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真田幸村は実は生きていた!?大阪夏の陣の後、豊臣秀頼と薩摩に逃げたという諸説について


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TokyoGameShow008

 

こんばんは、よつぶです。

 

突然ですが、僕は結構な歴史マニアです。ブログでは今までに見せたことはあまりなかったんですが、歴史について勉強するのは大好きです。

 

なので、もちろん毎年NHKの大河ドラマは見ています。今年やっている「真田丸」は相当面白いですね!メディアでもかなり注目されているので見ている人も多いんではないでしょうか?

 

今回は、その「真田丸」の主人公「真田幸村」の最後について、一般的に紹介されている事柄とは違う諸説があるので紹介したいと思います。

 

 

 

一般的な真田幸村

歴史の教科書などで紹介されている一般的な真田幸村の最後は、大阪夏の陣で徳川方に負けて討ち取られると言ったものです。

 

大坂夏の陣では、幸村はあと一歩という所まで家康を追い詰めます。家康は何度も切腹を覚悟したそうです。さすがの名将ですね。

 

ですが、最終的には徳川勢の数に圧倒され、休憩していた所を敵に見つかり討ち取られたというのが一般的な歴史の教科書などでは紹介されている内容ですね。

 

僕もそうですが、あまり真田幸村について詳しい人はいないかもしれませんね。名前だけはなんとなく聞いた事ありますが、実際に何をした人なのかを知っている人は少数だと思います。

 

 

影武者説

一般的には大坂夏の陣で死んだとされている幸村ですが、これが実は影武者だったという説があります。

 

当時、幸村はたくさんの影武者を送り出して相手を混乱させていました。実は当時は影武者を使うのは結構流行っていたそうです。真田の元親方の武田信玄も影武者を使っていました。

 

そこで、幸村は多くの影武者に「我こそは真田幸村である!」なんて叫ばせていたそうです。もちろん当時は写真やビデオなんかないですから、本物かどうかなんて見分けをつけられるわけないですよね。

 

なので、徳川の元にはたくさんの"真田幸村の首"が届けられ、どれが本物かわからなくなっていたそうです。徳川は幸村に会ったことはありますが、それも15年以上も前の若い幸村だったので、判断ができなかったんです。

 

そこで、捕らえられていた豊臣方の大将「御宿正友」と言う人が幸村の首を供養したいと言ってきたのでやらせたところ、迷わずに一つの首を持って行き、供養したのちに切腹したのでその首が幸村のものだと徳川は信じたそうです。

 

 

薩摩逃亡説

大阪で討ち死にした真田幸村は影武者だったという諸説ですが、本物はと言うと、幸村の息子の大助と豊臣秀頼の3人で薩摩に逃亡したと言われています。

 

幸村に続いて豊臣秀頼も生きていたという諸説ですが、これは大阪夏の陣の後、大阪城から秀頼の遺体が出てこなかったことが大きく関係しています。

 

さらに、大坂夏の陣の後、京都ではあるわらべ歌(噂を歌にしたようなもの)が流行っていたそうです。

 

そのわらべ歌の内容は「花のような秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり加護島へ」だったそうです。「加護島」は今の鹿児島のことですね。

 

しかも、色々な書物や日記などから幸村と秀頼が一緒に薩摩に逃げたという内容が発見されているそうです。

 

実際に当時の薩摩、今の南九州に「雪丸」という地域があり、そこに真田の墓があるそうです。雪丸という名前も幸村をなぞって付けられたと現地では語り継がれています。

 

その墓の場所に行ってみると本当にその地方では真田幸村が逃げてきたと伝えられています。

 

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出典:https://hajimete-sangokushi.com/2016/01/22/post-8879/2/

 

確かにはっきりと「真田幸村の墓」と書いていますね。

 

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出典:https://hajimete-sangokushi.com/2016/01/22/post-8879/2/

 

これが幸村の墓だそうです。石が積まれていますね。そしていかにも古そうな墓です。

 

さらに、鹿児島市には豊臣秀頼の墓があるんです!

 

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出典:http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/15833298.html

 

こちらも看板にはっきりと「豊臣秀頼の墓」って書いてます。

 

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出典:http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/15833298.html

 

これが秀頼の墓ですね。なんだか幸村のやつよりも立派ですね。そして墓は別々にあるんですね。ということは結局は離れて暮らしていたことになります。

 

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出典:http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/15833298.html

 

きちんと「秀頼の薩摩落ち」について説明されています。秀頼と全く縁のなかった土地でこう言ったものがあるってことは結構信憑性が高いんじゃないかと思います。

 

 

まとめ

今回紹介した説が正しいかどうかは証明することは難しいです。でも真田丸を見ている人はな幸村に死んでほしくないと思う人は多いんじゃないでしょうか?

 

僕もずっと幸村の成長をテレビで見てきたので、徳川に殺されるなんて知っていてもショックです。なので今回の新しい説は少し希望というか幸村の人生に明かりを与えてくれているような気がします。

 

歴史というのは常に新しい発見があるので、年々内容が変わっていっているそうですね。なのでいつかはこっちの説が教科書に載る日も近いかもしれません。

 

個人的には「薩摩落ち」が真実であってほしいです。そしていつか幸村と秀頼の墓に行ってみたいです。